et cetera
広布の賢者の壮年部
2009/01/16


随筆 人間世紀の光――山本伸一
広布の賢者の壮年部

 厳たれ! 師弟不二の黄金柱
 師子の勇気を 不死鳥の大生命力を

 嵐にも
  そして吹雪も
   恐れざる
  大樹に育てと
    君を見つめむ

 これは、病に倒れた若き友に贈った一首である。
 闘病の報告の手紙を受け取ると、私は、すぐに筆を執り、励ましたのである。
 彼は病気を乗り越え、今、確かに大樹となった。優秀にして慈愛深き大指導者となって、指揮を執っている。
 ともあれ、春夏秋冬の絵巻にあって、桜とともに、ひときわ鮮烈な光彩を放つ生命が、銀杏といっていいだろう。寒風のなか、金色に輝きながら、一年の総仕上げの時を告げてくれる。
 この銀杏を仰ぐと、壮年部の方々の美事なる王者の風格を見る思いがする。
 学会本部の近くには、東京の名所として愛される、外苑の銀杏並木がある。この外苑の銀杏は、今年、満百歳を迎えた。
 人びとは、毎日、この道を通る。この偉大なる樹木の景観を仰ぎながら、見つめながら、語りながら、通る。
 私にとっても、忘れ得ぬ道である。否、忘れることのできぬ、輝く歴史の道である。
 この百四十六本の並木の造成を指揮したのは、「日本近代造園の師」と謳われる折下吉延氏であった。
 木々の高さも、道の勾配に合わせて絶妙に整えられており、その遠近法を用いた景観は、世界的に有名だ。
 一九九九年には、この外苑の銀杏が、ドイツの名門フンボルト大学の銀杏の古樹に「接ぎ木」された。
 これは、統一ドイツの新首都ベルリンヘの遷都を記念した、都市緑化事業の一環である。
 銀杏の葉は「知者の心をよろこばす」と歌ったのは大文豪ゲーテであった。東洋から伝来した銀杏は、ゲーテの家の庭の四季も彩ったようだ。
 今、わが創価大学では、桜と銀杏の並木道「創大シルクロード」の整備が進んでいる。
 やがて、この道を、若き二十一世紀のゲーテたちが大樹を仰ぎ見ながら、語らい歩みゆくことであろう。
    ◇
 銀杏には、約二億年もの歳月を生き抜いた生命力がみなぎっている、とさえ言われてきた。
 恐竜の時代から繁栄し、氷河時代も乗り越えた。現存する最も古い植物の一つであり、「生きている化石」とも呼ばれてきた。害虫にも病気にも負けぬ、不思議な力を持っている。数多の公害にも強い。
 なんと偉大な樹木であろうか!
 「銀杏の葉を本に挟んでおくと、紙魚虫を寄せ付けない」と聞いた青春時代の思い出も、懐かしく蘇ってくる。終戦後まもない秋の日、私は、この外苑で拾った三葉の銀杏の葉を、手にしていたホイットマンの詩集『草の葉』に、栞の代わりに挟んだ。
 銀杏の栞は、この愛読書とともに、常に私の座右にあった。
 銀杏の原産地は中国だ。「公孫樹」(いちょう) と書かれる場合もある。
 そこには、自らが植えた銀杏の実を収穫するのは、孫の代になるという意義が込められていたようだ。
 かつて読んだ、その話が、今でも深く、私の心に残っている。「公孫樹」―― その名は、自分のためではなく、未来の世代のために生き抜くのだ! わが生命力を発揮して、歴史をつくるのだ!″と語りかけているような気がしてならない。
 銀杏の大樹を見れば、この木を植え、手入れをし、大切にしてきた先人たちの深き心が偲ばれる。
 私は東京生まれである。東京都の木が銀杏であることは、若い時から誇りに思ってきた。さらに、縁深き大阪府と神奈川県の木も、同じく銀杏であることを、嬉しく伺った。
 海に臨む神奈川文化会館の前を走る山下公園通りの銀杏並木は、「日本の道百選」にも選ばれている。
 仙台市の東北文化会館を荘厳する銀杏並木も、天空を突いて伸びてきた。
 「一株の大公孫樹が、澄みきった空に黄金色の大きな手をさし上げて、巨人のごとく立っている」
 これは、東北の歌人・石川啄木の感慨であった。
 私には、風雪を勝ち越えた、各地の黄金柱たる壮年部の友が思い起こされるのだ。
 以前、私は、外苑の銀杏並木を擁する東京・港区で健闘される壮年部の友に、一文を書き贈った。
 ――寒風に堂々たる根を張る銀杏の如く
 堂々たる信心で人生栄光の強き根を!
    ◇
 「蔵の財よりも身の財すぐれたり身の財より心の財第一なり」(御書一一七三n)
 信仰のゆえに迫害を受け、荒れ狂う世間の激浪に揉まれながら、懸命に戦っている四条金吾に対して、師匠・日蓮大聖人が送られた一節である。
 「蔵の財」とは、端的にはお金であり、経済力といってよい。
 「身の財」とは、健康や職業的技術、また社会的な地位や信用、名誉である。
 数年来、四条金吾は、その二つが試練にさらされていた。
 社会人として、生きるか死ぬか、勝つか負けるかの大苦境を耐え抜き、完璧に乗り越えていけるかどうか――まさに、油断ならぬ正念場の日々であった。
 しかし大師匠であられる大聖人は、愛弟子の四条金吾に賢者の生き方を示しながら、厳然と励まされた。
 ――わが弟子よ、「心の財」があるではないか!
 何を恐れることがあろうか! 「師弟不二の信心」という最強最極の力で、断固と勝ち抜け! と。
 「蔵の財」や「身の財」は、時とともに移ろいゆくものだ。
 三世永遠の妙法を受持して積み上げた「心の財」だけは、決して崩れない。
 ゆえに、わが創価の同志こそ、一閻浮提で最も「心富める人」なのだ。
 今、「百年に一度」という金融危機のなか、慌ただしい年の瀬を迎えて、必死の奮闘をされている方々が、多くおられるに違いない。
 ご苦労は、私にも痛いほどわかる。経済不況に悪戦苦闘される同志の苦衷は、わが胸を掻きむしられるように迫ってくる。
 私自身、戸田先生のもとで、絶体絶命の事業の苦境を、ただ一人、師子奮迅で支え、打開してきたからだ。
 「何なる世の乱れにも各各をば法華経・十羅刹・助け給へと湿れる木より火を出し乾ける土より水を儲けんが如く強盛に申すなり」(御書一一三二n)
 妻と二人して、この御聖訓を心肝に染め、多くの大切な同志のため、一心不乱に題目を送り続けている。
    ◇
 十九世紀のイギリスの詩人ブラウニングは歌った。
 「われ常に戦士なりき」
 「倒れるのは立ちあがらんが為め、妨げられるのはより能く戦はんが為め」
 若き日より、胸に刻んできた言葉である。
 ご存じの通り、私は十九歳の時から、広宣流布の険しい道を走り抜いてきた。
 厳しい時代もあった。
 苦しい時代もあった。
 しかし、妙法流布という使命に走る者は、全宇宙の諸天善神が守りに護ってくれるのだ。これほど痛快な人生はないのだ。
 妙法の信仰者には、絶対に敗北はない。
 敗北のない人は、永遠に勝利者である。幸福の王者である。人生の長者である。
 そのための信仰だ。そのための道を、歩み、走っているのだ。
 走れば走るほど、宝の山が待っている。幾千万という諸天善神が、喜んで待っている。

 仏法の
  広布の賢者の
     君なれば
  誇りも高く
    勝利の指揮とれ

 ある日、私は、逆境のなか、懸命に戦っている後輩に、この一首を贈った。
 秀才である彼からは、即座に決意の手紙が届いた。
 そこには、苦悩してきた人間は、苦労知らずを信用しない≠ニいう意味の、スイスの哲人ヒルティの言葉が綴られてあった。
 そして手紙は、「私も、この決心で、労苦を惜しまず、真の賢者となってまいります」と結ばれていた。
 この哲学者のヒルティ自身も、苦悩の連続であった。しかし最晩年、訪ねてきた知人に、ヒルティは語っている。
 「わたしの生涯から苦しみの時を抹消しようとすれば、よい想い出はぜんぜんのこらないことになるであろう。すべてよいことは苦しみの時間のうちに成長した」
 正義の指導者が多くの難に遭うことも、大勢の人びとを励まし、リードしゆくための試練なのである。
 決して、この道理を忘れてはならない。
 ともあれ、蓮祖大聖人は仰せである。
 「大難来りなば強盛の信心弥弥悦びをなすべし」(御書一四四八n)
 立ちはだかる苦難や競い起こる強敵こそ、壮年の生命を、いよいよ雄々しく蘇らせ、いよいよ壮んに燃えたぎらせてくれるのだ。
 さらに哲学の達人ヒルティは、「若さの秘訣」を問われて、「つねに新しいことを学ぶこと」を誇らしげに挙げている。
 「学ぶ人生」は老いない。
 創価大学の通信教育部でも、青年と共に学びゆかれる人生の先輩方の姿は、何よりも若々しく、美しい。
    ◇
 「私は口先だけの男を友にはしたくない」
 「仕事を見せろ、できれば立派な仕事を」――
 私が大切にしてきた、古代ギリシャの詩人テオグニスの言葉だ。
 戸田先生も、「口先だけの男」には、それはそれは厳しかった。
 その反対に、地味であり、朴訥であっても、誠心誠意、努力を重ね、確かな実証を示す人を、抱きかかえるように大事にされた。
 弟子たちの「祈り」と「戦い」を、じっと見守っておられた。師匠とは、本当にありがたいものだ。
 昭和二十八年の九月度の本部幹部会で、先生は、こう指導された。
 「長たる地位にありながら、闘争力のない者には福運が出ない」
 常々、戸田先生は――
 「臆病者になるな! 臆病者は、指導する力も出ない。資格もない」と厳しく言われていた。
 家庭であれば、その大黒柱には、一家を護り支える使命と責任がある。組織も、厳しく見れば、「長の一念」と「長の闘争力」で決まるのだ。
 この月(昭和二十八年九月)、わが蒲田支部の折伏は、初めて千世帯の大台を突破した。あの「二月闘争」で、私と共に、二百一世帯という、大きな壁を破る結果を出してから一年半余り。蒲田支部は、また新たな金字塔を打ち立てたのである。なかでも、支部の最大の牽引力となった矢口地区は、三百世帯を超えた。
 この矢口地区の黄金柱が白木薫次地区部長であった。後の第二代蒲田支部長でもある。社会では、会社の重役を務め、良識豊かな大人の風格の人であった。
 地区員を、いつも慈愛の眼差しで見つめ、親にも勝る愛情を注いでいた。
 組織がタテ線の時代である。東北の秋田や北海道、愛知、岐阜、山梨等々、遠方で苦闘する同志のためにも、喜んで走った。真剣に走った。
 何でも親身に、気さくに相談にのってくれる地区部長を、皆は「白木のおじさん」と呼んで慕っていた。その「おじさん」という呼びかけのなかに、最上の敬愛と信頼の響きがあった。
 ひとたび戦いに臨めば、燃やす闘志は、情熱あふれる青年の如くであった。
 幾つになっても、意気軒昂に戦う生命は輝き光る。だから人材も陸続と出た。
 「白木君は、あらゆる面で福運を受けているな」
 陰で、戸田先生は、常にそう誉めておられた。
    ◇
 健康と
   長寿の生命
    大切に
  壮んな年に
    誉れ多かれ

 「闘争力」とは、勇んで第一線に立つ生命力だ。
 中国の周恩来総理は、その模範を示され続けた。北京郊外のダムの建設現場を訪れ、一週間、寝食を共にして働いたこともある。五百人を超える中央の幹部も、勇んで総理に同行した。
 周総理らは、この現場でダムの堤を築くため、手押し車で石材を運び、列を作って石を手渡していった。
 周総理は、既に六十歳。幹部たちも平均年齢は四十五歳を超えていた。だが、仕事に取りかかると、竜か虎のように∴モ気盛んであったという。
 しかも総理は、皆が昼間の労働に疲れて眠った後、睡眠時間を削って、国家の執務も行った。総理の部屋は、いつまでも明かりが消えなかったのである。
 周総理が率いた一隊は、尊敬の念を込めて、「黄忠隊」と呼ばれた。
 黄忠は、三国時代、諸葛孔明の下で活躍した名将である。七十歳近くになっても、勇んで陣頭に立った。
 敵将に向かっては、「わしを年寄りとあなどるか。わしの刀はまだ若いぞ」と、猛然と突入していった。
 黄忠が立てば、全軍が奮い立った。
 「鋒を突きたて、あくまでも進撃し、率先して士卒を励まし、鍾と太鼓は天を振わせ、歓声は谷を動かすほど」――黄忠の天晴れな戦闘を、正史『三国志』はこう伝えている。
 広宣流布のため、平日の昼間から奮闘される、わが壮年部の「太陽会」「敢闘会」などの皆様方は、誉れの「創価の黄忠隊」である。
 お体を大切に、晴れ晴れと進んでいただきたい。
 当然、仕事の上では「定年」はある。しかし、南無妙法蓮華経を唱え行じゆく生命には、定年はない。
 常に、元初の旭日の生命力で、永遠不滅の勝利の人生を飾っていけるのだ。

 子々孫々
  末代までの
    功徳をば
  父たる あなたの
    因果の土台で

 波乱万丈の大闘争を越えて築き上げた、わが生命の城は難攻不落である。
 釈尊が信頼する弟子であった須達長者は、「七度貧になり・七度長者となりて候いし」(御書一五七四n)と言われる。
 現実社会において、浮き沈みは避けられない。
 特に七度目は、最も苦しい窮地に立たされた。しかし、この一番、苦しい時に、須達長者は夫妻して、身命を惜しまず、すべてを捧げて、師をお護りした。
 この時の大福運によって、夫妻は、どん底から立ち上がった。そして、当代随一の長者となり、やがて祇園精舎まで建立寄進する大境涯になったのだ。
 日蓮大聖人は、この「師弟不二の信心」で勝った須達長者夫妻の姿を讃えられ、「これをもって万事を弁えなさい」と仰せである。
 仏法には、汲めども尽きぬ福徳を積みゆく因果律が明かされているのだ。
 仏典には、仏を指して「出世の長者」と言われ、この長者には「魔を降し外を制す」力があるとも示されている(御書八一八n)。
 仏の大力を出せ! 卑劣な魔の蠢動を打ち破り、外にも厳として勝て。そして、健気な婦人部や女子部を護り抜け――これこそ、男の戦い≠ナある。なかんずく地域や職場で信頼されゆく壮年の戦いだ。
    ◇
 有名なインドの哲学者ラダクリシュナン博士は、私の大切な友人である。
 博士の父上は、マハトマ・ガンジーと共に勇敢に戦った非暴力の闘士であった。亡くなられた後も、「地位や権力や金銭にとらわれない、恐れを知らぬ人であった」と賞讃された。
 博士は、お仕えする師匠からも、偉大な父上の勇気ある息子として、断じて勝ち誇る人間になれ! と、薫陶されてきたのである。
 自らの信念を貫いた、悔いなき勝ち戦の歴史こそ、わが子や後輩に対する最高の遺産となるのだ。
 「一人の人間こそすべてである」と、ナポレオンは必勝の将軍学を語った。
 広宣流布の勝利も、一人の人間で決まる。
 我ら壮年の誉れとは、いったい何か。
 それは、わが人生の道にあって、信心を根本に打ち立てた「勝利の旗」の数ではあるまいか。
 「誰か」ではない。「自分」である。自分が勝つことだ。自分に勝つことだ。
 その姿こそが、皆に勇気を波動させていくのだ。
    ◇
 不死鳥か
   依正不二なり
       君と僕

 私が、この句を詠んだのは、入信三十周年を迎えた昭和五十二年の八月二十四日であつた。この日は、「壮年部の日」であった。
 私は、信頼する全国の壮年部の同志に、共に不死鳥≠フ如く前進をと、この句を贈ったのである。
 句に詠んだ「依正不二」とは、行為の主体である「正報」と、その依り所となる環境の「依報」が不二だと洞察した、仏法の奥義である。
 想像を絶する艱難をも、「法華経の兵法」で勝ち切って、何ものにも微動だにせぬ自分自身を鍛え上げるのだ。
 この勝利また勝利の自分に即して、壮大なる栄光の環境が出来上がっていくのである。全部、「依正不二」だ。自分の胸中の制覇が、すべての環境も勝利させていくものである。
 日蓮大聖人は、我ら壮年部の大先輩である池上兄弟に厳しく仰せである。
 「強盛に歯噛みをして、決して弛む心があってはならない」(御書一〇八四n、通解)
 そして師匠の大聖人が、幕府の権力者・平左衛門尉に向かって威風堂々と振る舞い、破邪顕正を師子吼されたように、少しも恐れる心があってはならないと、励まされたのである。
 師の如く、「師子王の心」で戦え――これこそ、師弟不二の壮年部の魂である。
 わが弟子よ、師匠が切り開いた「勝利の大道」に、敢然と続け!
    ◇
 一九七四年、日本で開催された、あの至宝の名画「モナ・リザ展」の折、フランス政府の特派大使として来日されたのが、行動する文化人アンドレ・マルロー氏であった。
 この折、氏と私は、聖教新聞社で、三時間近くにわたって対話を重ねた。
 翌七五年の五月には、パリ郊外のご自宅にお招きをいただいた。文明の未来を見つめ、様々なことを語り合ったことが懐かしい。
 このマルロー氏の哲学を凝結した言葉がある。
 「なすべきをなして、コメント(=論評)は人にまかせろ」
 まったく、その通りだ。
 傍観者の戯言などが、なんだ!
 傍観者の無責任な態度が、なんだ!
 傍観者の勝手気ままな臆病な言動が、なんだ!
 我らは不死鳥≠フ如き広宣流布の闘士である。我らには不死鳥≠フ如き師弟の誓いがあり、久遠からの偉大な使命がある。
 戦いはこれからだ。
 必ず、勝つのだ。
 我らに開けぬ道はない。
 我らに破れぬ壁はない。
 勝利できぬ戦いはない。
 戦おうではないか!
 そして勝ちまくるのだ。
 勝って勝って、深く大きい歴史を子孫に残すのだ。後世に残すのだ。
 勇敢なる凡夫という、最高の俳優となって、今世を生き抜いていくのだ。
 わが大切な大切な、壮年の同志よ!
 偉大なる道を歩みゆく、わが不二の戦友よ!
 私たちを、君たちを、諸天善神は、万歳を叫びながら見守り、喝采しながら未来永遠に護ることを、忘れてはならない。

 走り抜け
  師子の如くに
    勝ちまくれ
  師弟不二なる
    長者の君なば


銀杏の話は飯倉照平著『中国の花物語』(集英社)、深津正・小林義雄著『木の名の由来』(東京書籍)など参照。
ゲーテは「西東詩集」Gゲーテ全集2』所収)生野幸吉訳(潮出版社)。
石川啄木は『雲は天才である』(金の星社)。
ブラウニングは『ブラウニング詩集』野口米次郎訳(第一書房)。
ヒルティの言葉は順に『眠られぬ夜のために1』草間平作・大和邦太郎訳(岩波書店)、シュトゥッキ著『ヒルティ伝』国松孝二・伊藤利男訳(白水社)、『ヒルティ著作集2 幸福論U』斎藤栄治訳(白水社)。
テオグニスは「エレゲイア詩集」(『世界人生論全集1』所収)久保正彰訳(筑摩書房)。
周恩来の話は新井宝雄著『革命児周恩来の実践』(潮出版社)。
黄忠は『完訳三国志5』小川環樹・金田純一郎訳(岩波書店)、陳寿著『正史三国志5』井波律子訳(筑摩書房)。
ナポレオンはオブリ編『ナポレオン言行録』大塚幸男訳(岩波書店)。
マルローは竹本忠雄著『アンドレ・マルロー日本への証言』(美術公論社)。引用文中の( )は筆者注。


[一覧トップへ戻る]
©2011 SHINGO