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池田大作──その行動と軌跡 第7回 第2代会長(4)
2009/03/15


市ヶ谷の分室で 恩師は面接指導した
一対一の対話があるから学会は強い
第二代会長が誕生

 昭和二十六年(一九五一年)五月三日。この快晴の木曜日、戸田城聖は創価学会第二代会長に就任した。
 組織も一新され、新進気鋭の人材が登用された。
 しかし、池田大作青年には師の事業を軌道にのせる責務がある。
 大将軍を先頭に進撃が始まったものの、兵站(へいたん)を考える者は誰もいない。そのため、最末端の役職にとどまる。
 苦境の戸田城聖を支え、復活への血路を開き、矢島周平の野望を砕き、第二代会長に就かせたのは、池田青年にほかならない。
 その存在なくして「戸田会長の誕生」はなかった。にもかかわらず、会長就任後の役職は、わずかに男子部班長にすぎない。
 事情を知らない青年部幹部のなかには、ふだん活動に姿を見せないことをあげつらい、批判する者までいた。
 もとより覚悟である。男子部の後輩に語っている。
 「私は釈迦の弟子の中で、密行第一といわれた羅目侯羅(らごら)が一番好きだ。私は、それで通すんだ」
 羅目侯羅とは、釈迦十大弟子の一人である。
 厳しく戒律を遵守し、みずから表に出ることばない。陰で黙々と働き、教団を支えた弟子である。
 その後の矢島周平である。
 第二代会長が誕生した昭和二十六年五月に、矢島は理事長を更迭され、指導監査部長に転じた。さらに九月には、自ら申し出て、この役職も辞している。
 この手の男には、あまり追跡リポートがないものだが、翌二十七年四月の聖教新聞に消息が掲載された。
 「指導方針が真実の大聖人様の教からはずれたため、大きな錯誤を学会員の指導及び自己の生活に暴露した」
 幾多の証言と一致する。「教えからはずれた」何かがあったようである。
 昭和二十八年六月の続報。
 「会長推戴の前後より事業に失敗し、以後しばらく学会より離れていたが、昨年一度再起せんとして果さず」
 事業に失敗し、そのまま立ち直れなかった。その後、戸田会長の情けで出家し、学会が寄進した寺におさまるが、反省の色は見えなかった。
 戦前は自分を拾ってくれた牧口会長を捨て、戦後は戸田会長を裏切った。やはり一度、裏切った男は何回でも繰り返すものと言えようか。
 戸田会長の事業も新しい段階を迎えた。
 会長に就任して間もない五月末、百人町から市ヶ谷の貸しビルの二階に移った。
 お堀端。市ヶ谷駅から橋を渡って、ほぼ向かい側。打ち放しコンクリート三階建てである。百人町の事務所に比べ、格段の違いがある。
 戸田会長は市ヶ谷ビル内のレストランで、よく昼食を取った。エビをソースで和え、穀にのせたコキールが好物だったようだ。シェフの夫婦とも親しくなった。
 西神田の事務所で行っていた会長の個人指導も、この市ヶ谷ビルに舞台を移す。
 学会本部の分室と聖教新聞の編集室も置かれた。
 分室は四、五坪ほどの小さな部屋だった。窓際に大きめのデスクがあり、その机上に一輪差しとインク立てが置かれている。
 ここで会長は缶入り「ピース」から一本を取り出し、うまそうに吸った。
 缶に入っている円形の紙を取っておき、折々に詠んだ歌を記して会員に贈ることもあった。
 「信頼を売る」
 分室で会長の指導を求める会員は、デスクの前の丸椅子に座る。部屋の両脇に置かれた長椅子にも、みっちり人が腰を下ろしている。
 コンクリートづくりで、冬場は足もとから、しんしんと冷える。練炭火鉢がたかれた。せまい廊下にまで行列ができた。
 戸田会長は、時には机に身を乗り出し、時には、たった一言で突き放すこともある。
 森田秀子には印象的な師の一言がある。
 「面接というのは、すごく疲れる。濁流の中で、たったひとり一本の旗を持って立っているみたいだ。ちょっとでも心がゆるむと、その旗ごと倒されそうだよ」
 この一対一の対話が学会の伝統になる。
 個人指導は午後二時から四時過ぎまでだが、遅くなる日もあった。最後の一人を見送ると、別室のひじ掛け椅子で休んだ。
 それ以外の時間は、執筆にあてることが多い。極度の近眼のため、字を書くのは辛労が大きい。
 タバコをくゆらせたり、仁丹をかみながら口述する。秘書の書きとめる内容が、そのまま「大白蓮華」の巻頭言や聖教新聞の記事になった。
 池田青年も、市ヶ谷に出勤した。
 昭和二十七年(一九五二年)一月に入社した吉田顕之助。先輩の池田青年に仕事を教わった。
 大井町駅のすぐ近くで炭屋を営む壮年に、出資を願いに行った日のことである。
 堂々と大股で歩く先輩の背中が頼もしい。営業の現場を見て、驚いた。
 壮年と会い、礼儀正しく挨拶すると「景気は、どうですか」。
 世間話から始める。お互いの身の上を語り、会話が弾むが、いっこうに商談は出てこない。想像とはまったく違うではないか。
 吉田が気をもみはじめたころ、壮年がキッパリした口調で告げた。
 「分かりました。出資させていただきましょう」
 それだけではない。壮年は後日、出資者になりそうな知己まで紹介してくれた。
 その後も、池田青年に従って現場を踏んだが、どこに行っても同じだった。
 仕事の話は一言もしない。だが最後は決まって、相手から申し出てくれた。
 不思議でならない。だが、やがて気づいた。まず自分を信頼させる。そして、師を信頼させているのだ。
 みな、池田青年という人物を人間として信用して、協力している。
 「営業とは自分という人間を売ること。信頼を売ることなのか」
 このころから、業績は次第に好転していく。職場の陣容にも、ようやく余裕が生まれ、戸田会長の財政事情も、かなり盤石となった。
 「機は熱したか......」
 重大な決断を下した。
 「大作を出してもいいころだな」
 戸田会長は池田青年を組織の第一線に出す。
 戸田会長と過ごした「池田青年の十年」。事業の打開とともに、そのもう一つの核をなすのが、苦闘期の昭和二十五年から行われた一対一の個人教授である。
 戸田大学とも呼ばれる。
 そこで何が語られていたのか、速記の資料等は残されていない。
 ただ、この戸田大学は、その後、二つの発展形態をたどっていくため、そこから類推することは不可能ではない。
 一つは大学の教養課程レベルの講義である。やや学問的な色彩が強い。
 もう一つは古今の文学作品を教材にした指導である。学会の運動論と深く結びつく。
 前者は、市ヶ谷の事務所で早朝に行われたことから「早朝講義」と呼ばれた。
 これには社員たちも同席が許された。
 後者は、事業がもっとも苦境にあった時、池田青年をはじめ代表十四人に語った講義である。『永遠の都』などが教材で、戸田会長の就任後に終了する。
 古今の文学作品は、戸田会長の心のフィルターを通すと、実に示唆に富む青年育成のテキストになった。
 その後、池田青年の申し出により、青年部員を選抜しての指導会が行われることになった。
 それが「水餅会」である。
 (続く)

時代と背景
 恩師の事業が軌道に乗り、組織の第一線に躍り出た。蒲田では月201世帯の弘教を指揮し、当時の限界を破った。(小岩・向島・城東を擁する第一部隊長として青年勢力を倍増。最下位クラスに低迷していた文京支部もA級支部に押し上げた。
 背に焼けた鉄板を入れたような疲労が続く。「だが、私は、自己との妥協はできない情勢になつていた」(池田大作著『私の履歴書』)

2009/01/14付 聖教新聞

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