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都議会公明党は「福祉の東京」の推進力
2009/06/20


三六年にわたり東京都庁の第一線にいた元副知事が語る、公明党の存在感と実現力。

福祉政策で日本をリード

 私が東京都の職員として勤めてきた三六年間、東京都は都民の生活を守り豊かにする政策において、全国をリードしてきたと自負している。その全国に先駆ける政策を、東京が立案する際、特に都議会公明党と議論を重ね、公明党側から様々な意見が出たり、あるいは都の意見を公明党に理解してもらうことによって、実現した政策は数多い。
 特に、公明党が「福祉」の分野でリードしてくれたために、東京が全国の模範となる政策を実現できた。たとえば、都議会公明党の主導で実現した全国に誇る福祉政策が、かつての“老人福祉手当”だ。
 まだ在宅介護サービスが充実していない頃、公明党は老人福祉手当の増額を要求し続けた。その結果、当初は月額三〇〇〇円の支給だったが、介護保険制度ができて廃止される最後の年度には、月額五万五〇〇〇円も支給されたのである。美濃部都政の“ばらまき福祉”を批判して誕生した鈴木都政一六年間にあっても、この手当は一六回、つまり毎年引き上げられた。都議会公明党が高齢者福祉にいかに力を入れていたかが分かるだろう。
 こうした一連の動きによって、東京都には高齢者福祉に力を入れる伝統ができたため、介護保険制度が導入された現在も、都には老人介護サービスを充実させようという声がある。
 医療費助成で非常に印象的だったのは、“乳幼児医療費助成”である。これは間違いなく、公明党が先駆けて実現させた政策である。
 私が都の福祉局の部長を務めていた頃なのでよく覚えているが、一九九四年(平成六年)一月、東京都が全国ではじめて乳幼児医療費助成を打ち出した。これは当時、都議会公明党が署名運動を行って実現できた政策であった。
“児童手当”も東京都が全国に先駆けて実現した政策だが、これも都議会公明党の強い主張が背景にあった。
 一九六九年(昭和四十四年)に実現したこの政策は、翌年には全国二四〇自治体へと拡大し、七二年には国の制度となった。まさしく東京都が日本をリードした例である。
 東京の“住宅政策”も公明党主導で変化した。
 戦後、住宅不足の時代が続き、本来ならば都がリードして住宅政策を実現しなければならなかったのだが、新たな公営住宅は年間数千戸程度しか建っていなかった。だが、一九六五年(昭和四十年)、一挙に一万戸以上も建つようになる。これも都議会公明党の地道な訴えの結果だった。
 同年、「新住宅市街地開発法」という法律に基づき多摩ニュータウンを造るため、都は山を切り崩して地盤を造り、区画整備するための予算を要求していた。これに対し公明党は、「いま住むところに困っている人がいるのに、地盤整備をしている時間はない。いますぐ建設できる場所は二三区内にたくさんあるのだから、まずそちらに都営住宅をつくれ」と、多摩ニュータウンの予算凍結を提案したのである。この提案は衝撃的であった。
 実際には多摩ニュータウンの予算は通したのだが、この公明党の意見により、都側も都営住宅建設へ本気になり、その結果、都営住宅年間一万戸時代が到来したのである。
 “難病治療の助成”についても、公明党はきめ細やかに提案してくれた。都が知らなかったような難病に罹(かか)る患者さんの声を丁寧に拾っての提案は、公明党ならではの真骨頂であった。
 声なき声を公明党がすくい上げるという点では、“盲ろう者”への対策も挙げられる。都議会公明党は一人の盲ろう者の声をもとに、二年がかりで行政の壁を打ち破り、「盲ろう者通訳・介助者派遣事業」を全国に先駆けて実現させた。
 その他にも、古いところでは、一九六三年(昭和三十八年)の“隅田川し尿不法投棄”の実態解明や、翌年の“母子寮総点検”にはじまり、東京都の“バリアフリー化”や“高齢者あんしんコール”、“女性専門外来”や“休日夜間がん相談”など、福祉に関する政策を、公明党は次々と実現してきた。公明党は東京、そして日本の福祉をリードしてきたのだ。


環境政策でも主導権を握る

 また公明党は、「環境政策」でも主導権を握っている。
 たとえば公害の問題では、対処すべき物質が段階的に変わる。まず、喘息(ぜんそく)の原因であるSO2(ニ酸化硫黄)、NOx(窒素酸化物)の対策。続いてPM(粒子状物質)、そして温暖化対策のためのCO2(ニ酸化炭素)対策へと繋がる。この四段階の変化は、現在でこそ知られているが、かつてはNOx対策までが常識であった。
 私がPMという言葉をはじめて聞いたのは都議会公明党の控え室であった。
 都庁が有楽町から新宿に移転して間もない頃だから、一九九一年(平成三年)頃だと思うが、ある日の夜遅くに都議会に行ったら、公明党の石井義修議員が控え室で一人で勉強していた。そこで、「きみ、これを知っているか」と、大気中に浮遊する粒子状物質のことを熱っぽく語った。そして「これからこれが問題になるぞ」とも。
 実際、これはその後大きなテーマとなって、クローズアップされた。
 とくにPMの中でも象徴的なのが、デイーゼルエンジンの排ガスによる浮遊粒子状物質(SPM)である。東京都では、石原都政のもと、ディーゼル車の排気ガス規制を全国に先駆けて、八都県市(埼玉県、千葉県、東京都、神奈川県、横浜市、川崎市、千葉市、さいたま市)の連携のもとに実現させることができた。
 また、四月に来日した国際オリンピック委員会の評価委員会も高く評価した東京の水だが、これも公明党が長年、水道の水が飲めることを維持するべきだと主張し、上下水道の整備を進めてきた成果である。
 公明党が福祉や環境問題に大きな関心を抱いてきたのは、つねに生活者の視点があるからであろう。そしてこの視点の延長線上には、「消費者行政」がある。
 一九七〇年代に入って、ドルショック(変動相場制導入)やオイルショックが起こり、物価が高騰する時代に、自治体が産地と直接契約をして届けるという「産直」を実施した。緊急時の商品の安定供給のためである。この第一号が“嬬恋(つまごい)のキャベツ”なのだが、このシステムを導入したのが公明党であった。これによって緊急時には、自治体が流通市場に対して介入し、消費者の保護や流通機構の合理化を促進することを示すことができた。


中小企業の味方で経済感覚が鋭い

 自治体にとっては、自治体の住民の生活を守ることが最大のテーマである。東京都の行政に携わる者は、都民生活を守り発展させることを第一とする。
 したがって、生活者の目線で都民生活を守ろうとする公明党と、行政の考える政策が一致することは多い。少なくとも両者は好影響を与え合ってきて、福祉や環境問題の面で全国をリードしてきた。
 どんなに素晴らしい政策でも、財源が必要である。公明党は、弱者である中小企業やその従業員を支えてきたためだろうか、経済感覚が優れており、財源に関しても非常に敏感である。
 東京都は全国でも珍しい健全財政で、国からの地方交付税に依存せず、法人税に依拠して運営されている。
 ということは、景気によって税収の変動が著しいことを意味する。
 したがって、景気の良い時に財源を積み立てておくのみならず、積極的に投資し、次の世代の都民がしっかりと稼ぐことができるようなインフラをつくっておく必要がある。
 このような感覚は、中小企業であれ、大企業であれ、経営者であれば誰もが分かる。公明党は多くの中小企業経営者と関わっているため、このような感覚が分かるのだろう。インフラ整備に対しても非常に協力的だ。
 たとえば、都営大江戸線。公明党は一貫して推進派だが、計画段階から反対している政党もあれば、つくってから批判している政治家もいる。だが大江戸線は毎年、単年度会計については黒字化している。
 大江戸線の重要性は環状鉄道であるという点だ。
 大江戸線は山手線とほぼ同じ規模だが、本格的な環状鉄道を二本も持つ都市は世界でも東京だけだ。
 環状鉄道があると、他の路線との乗り換えが便利になり、ネットワークが確立する。大江戸線の場合、二八駅中二一駅までが他の路線との乗り換え駅だ。産業社会から情報化社会への変化によって、人々の移動も複雑化している。これに対応するための環状鉄道なのだ。
 また、「モーダルシフト(modal shift)」──CO2を排出する自動車から、CO2を出さない公共交通手段への変化――実現にも近づく。
 来年の秋に運航が開始される羽田空港の四本目の滑走路も、次世代のためのインフラだ。これにより羽田空港は本格的に国際化できるようになる。
 現在進めている東京外環道も同様だ。外環道の重要性は大江戸線と同じである。高度成長期につくった東名、常磐、東北、中央などの主要高速道路を束ねる環状道路が東京にはない。東北から関西に抜ける車が幅二五bしかない一般道(環八道路や環七道路)を使っている。つまり、電車にたとえれば、乗り換えが不便極まりない状態だということである。
 工事によって周辺住民が迷惑を被るため、苦渋の選択だが、そもそも東京外環道の凍結解除は、実は埼玉外環ができたことにより、一般道に降りてくる車が一日あたり一万二五〇〇台も減ったことを住民が実感したからこそ進めることができた話である。
 このような長期的視点に立ち、都民に利するインフラに積極的に投資し、財源を確保する健全な感覚がなければ、福祉も環境も、ただの“バラマキ”になってしまう。
 公明党は東京オリンピックのインフラも含め、基本的にインフラ整備賛成派だ。この点からも安易な“バラマキ”に陥ることなく、財源や次世代のことについて気を配る健全な感覚を持っていると言えよう。
 公明党は一貫してキャスティングボートを握ってきたが、単に数だけであれば、これほど長年、キャスティングボートを握れるはずはない。公明党の主張する政策が、つねに都民の側から出た都民のための政策だから、公明党の意見に力があり、だからこそ、長年キャスティングボートを握れるのだろう。少なくとも都庁幹部全体のあいだでは、公明党が要求してくるテーマは、その地域に根ざした実需要があるという認識は一致している。


都議会公明党の使命

 近年、国も地方自治体も汚職や悪しき労働慣行などが明るみに出て、世間から非難されている。
 たとえば民営化や公社公団改革、組織改革や定数削減、そして、ヤミ専従やカラ残業などの労働慣行の禁止などが進められている。
 東京都は全国に先駆けてこれらを明るみにし、膿を出し、清浄にしてきた。ここでも公明党の果たした役割は非常に大きい。
 一九六五年(昭和四十年)に起きた東京都議会「黒い霧解散」は、自民党の議長選挙の汚職など、いくつかの汚職事件が重なって、都議会議員の何人もが摘発されるに至ったことに端を発する。この事態に、公明党が中心となって都議会のリコール運動を進め、リコール投票が実現しそうになった。だが、自民党は国会でわざわざつくった法律に基づき、リコール投票を避け、議会を自主解散する。都議会の選挙が統一地方選挙の日程とずれているのは、こうした理由があることは、あまり知られていない。
 じつは一九四三年(昭和十八年)、東京府と東京市が合併し、東京都が誕生したが、それ以前から東京の議会は「伏魔殿」と呼ばれ、汚職事件が絶えなかった。
「伏魔殿」という言葉が世に知られるようになったのは大正時代。当時の東京市議会に汚職が横行していたためにそう呼ばれた。
 この事態を打開するために担ぎ出されたのが大物政治家・後藤新平だ。
 周囲は後藤に対し「伏魔殿・東京市に入っていく者は大勢見たが、出て行く者は見たことがない」と反対する。だが、後藤は「だからこそおれが行く」と市長に就任した。
 後藤が実施したのが「東京市政要綱」と呼ばれたものであった。架橋や道路舗装、上下水道の敷設、学校建築などの巨大インフラを、計画行政で行うことを決定したのである。全体の予算が一億三〇〇〇万円だったところ、この「東京市政要綱」は八億円の予算を取り、一〇〜一五年で実施する“大風呂敷”だった。この計画行政は、大型インフラを毎年度の予算でやると、利益誘導や政治権力の介入を招くために行われたもので、これにより後藤は汚職一掃とインフラ整備を実現した。
 その後、再び東京都は「伏魔殿」と化し、都民の怒りを買っていたところに、公明党が誕生した。
 つまり公明党は創立当初から、「伏魔殿」を破壊し、改革を担ってほしいと都民に期待されていた。そして実際に、公明党は具体的な政策を提案し、東京都を全国に先駆けて改善してきた。
 現在各地で進められている改革の原点に存在するのが、後藤新平であり、そして都議会公明党なのだと、私は思う。

あおやま・やすし(作家・明治大学公共政策大学院教授)
一九四三年東京都生まれ。六七年東京都入都。高齢福祉部長、計画部長、政策報道室理事などを歴任し、九九年五月石原慎太郎知事の下で東京都都副知事に就任。
二〇〇三年に退官、〇四年から現職。また郷仙太郎のペンネームで作家活動をはじめ、日本史人物伝に関する著作も多い。著書には「自治体の政策創造」「痛恨の江戸東京史」「東京都副知事ノート」「小説 後藤新平」など多数ある。

<潮 July,2009【特集】東京の発信力より>


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