et cetera
〈ストーリーズ 師弟が紡ぐ広布史〉第6回 神奈川にそびえる正義の大城 雌伏の時編
2021/04/18


絶対に信頼できる誉れの宝友

 横浜港に面する山下公園が開園したのは、1930年3月15日。創価学会が創立された年と同じである。
 公園の基礎になっているのは、関東大震災で生じた膨大ながれきだ。山下公園は荒廃から立ち上がる復興の象徴だった。
 79年4月、この山下公園のすぐそばに、創価の正義の大城・神奈川文化会館が完成した。
  
 同年1月1日、池田大作先生は神奈川の友にメッセージを贈り、友が「神奈川の御書」と定め、心に刻んでいた開目抄の一節を拝した。
 「我並びに我が弟子・諸難ありとも疑う心なくば自然に仏界にいたるべし、天の加護なき事を疑はざれ現世の安穏ならざる事をなげかざれ、我が弟子に朝夕教えしかども・疑いを・をこして皆すてけんつたなき者のならひは約束せし事を・まことの時はわするるなるべし」(御書234ページ)
 当時、宗門の僧らが全国で常軌を逸した学会批判を繰り返していた。先生は「この御聖訓を胸に、我が決めた信仰の道を堂々と進んでいって下さい」と訴え、「本年は、神奈川に文化会館が建ちますし、たびたびお邪魔するようになるかと思います」と、会館の誕生を心待ちにした。

 先生が神奈川文化会館を初訪問したのは、79年4月13日。会館に到着してしばらくすると、先生は管理者室へ向かった。
 脚光や喝采がなくとも、“ただ広布のために”との心で献身する――先生は、その人をサーチライトで照らすように探し、励ましを送ってきた。神奈川文化会館での激励行も、陰で広布に尽くす人から開始された。
 翌14日、開館記念の勤行会が昼と夜の2回行われた。その両方に先生は出席。自ら司会を務める一幕があり、勤行会はさながら“大座談会”となった。
 先生から一言を促された参加者が、次々とマイクの前に立った。「いま73歳です。生涯、広布の道を歩みます」と決意を述べる友。「長女が無事に結婚できてうれしい」と思わぬ近況報告をする婦人も。会場が笑いと祝福の拍手に包まれる。
 草創の鶴見支部で活動に励んだ婦人は、感激のあまり、あふれる涙を抑えきれなかった。先生は「苦労したんだね」と優しく寄り添う。
 場内には、牧口先生の「一人立つ精神」の書が掲げてあった。
 「いかなる時でも、私たちが立ち返るべき原点は、初代会長の牧口先生が言われた“一人立つ精神”であり、広宣流布の大精神であります」
 先生は神奈川の友に、“嵐”に揺るがぬ信心を貫くことを訴えた。

 1979年4月24日、池田先生の会長辞任が発表された。突然の報に、怒りや悲しみの心情を、師への手紙に託す友が全国各地にいた。
 先生は神奈川の婦人から届いた手紙に返事を書いた。辞任から5日後のことである。
 「今回の辞任については、何卒、強盛なる信心で受けとめて下さい。そして、いやまして、信心の炎を燃やして、日本第一の御一家を築きあげて下さることを、私は、祈り待っております」
 文面には、一人の女性を生涯、見守り、励まし続けようという真心があふれていた。
 学会の草創期、夫は池田先生のもとで広布に駆けた。だが、胃がんで早くに亡くなる。婦人は“2人の子どもを立派に育てる”と涙を流して誓った。洋裁教室を開き、信心根本に家族一丸となって経済苦を乗り越えてきた。
 先生は手紙をこう結んだ。
 「これからも、いかなる時代の変遷があったとしても、厳とした、無上道の信心を透徹させて、迷いなき悠々たる、人生を送って下さい。亡き御主人には、毎日、追善の題目をおくっております。私は、いたって悠々と元気です。ともあれ、少しずつでも、必ず御書の拝読をされます様に」
 師からの手紙は、婦人の「宝」となった。何度も何度も読み返して、誓いの道を歩み続けた。
 手紙を受け取った20年後の99年、婦人は74歳の生涯を閉じる。御書を手に、地域で対話の花を咲かせ、皆から親しまれた。長男、長女も報恩の人生を歩んでいる。

 79年5月3日、先生は創価大学での本部総会を終えると、神奈川文化会館へ向かった。
 この日の読売新聞朝刊には、“最も尊敬する日本人”の意識調査が掲載されていた。第6位に、池田先生の名前が挙がっていた。現存する民間人では、第1位であった。
 夜、神奈川文化会館に到着すると、先生は出迎えた友に、「私は元気だ。大丈夫だよ。創価学会は何も変わらない。安心しなさい」と。
 師は何も変わっていない。師子王のごとく威風も堂々。友の目に決意が光った。
 その後、先生は2枚の書をしたためた。「共戦」「誓」。「共戦」の脇書には次のように記されていた。
 「五十四年 五月三日夜 生涯にわたり われ広布を 不動の心にて 決意あり 真実の同志あるを 信じつつ 合掌」
 2日後の5日には、一気呵成に「正義」と筆を走らせ、脇書に「われ一人正義の旗持つ也」と書き上げた。

 79年5月3日から6日までの4日間、山下公園や会館の周辺には、“一目でも先生にお会いしたい”と、何人もの同志が集ってきた。
 先生は「県下から神奈川文化会館に集い来たってくれた、あの友も、山下公園から会館に向かって手を振ってくれた、この友も、私と妻の胸奥から永遠に離れることはありません」と。
 出版コーナー(当時)では、アルバイトをしていた鎌倉の学生部員に、「初代、二代、三代の会長の魂を見失ってはいけないよ」と強調した。
 「正義」の書をしたためた5月5日、会館へ来た5人家族に声を掛けた。母親に「御書を勉強してね」「どんな宿命にも負けないで頑張ってください」と励まし、父親、3人の娘と握手を交わした。
 その日の夜、先生は館内にいた友と勤行・唱題。「嵐の時代こそ、若い力を信じていくしかない」と語り、青年たちに「一緒に戦おう」と呼び掛けた。
 神奈川文化会館を出発する5月6日、先生は見送る友に「創価学会インターナショナル 会長 池田大作」の名刺を。到着した3日には、「記念に皆さんに」と言って、会館に居合わせた同志に「創価学会 会長 池田大作」の名刺を贈っていた。
 世界広布の新たな船出は、神奈川から開始された。

 5月31日、神奈川文化会館を見学に訪れた女子部員は、役員から「今すぐロビーに」と声を掛けられた。急いで向かうと、先生が青年たちと懇談していた。先生は「皆で一緒に勤行しよう」と。
 女子部員は幼い頃、ポリオを患い、足が不自由になった。小学生の時、いじめに遭った。
 勤行が終わると、先生は彼女に「君は本当に幸せな顔をしているね」と語り掛けた。さらに、「君の足は確かに不自由だけど、今が一番幸せだね」と。「今が一番幸せだね」を、先生は3回繰り返した。
 師の言葉の真意を分かろうと、女子部員は地道に活動に励んだ。その挑戦の中で、「自分の励ましを必要としてくれる人がいる」という事実に気付いた。
 過去に縛られるのでも、ましてや宿命の悲哀に泣くのでもない。今この瞬間を大切に、未来に向かって生きていく。婦人部に進出後も、師との出会いを胸に、車いすを走らせ、相模原の地で不屈の挑戦を重ね続けた。
  
 神奈川文化会館が誕生した79年だけでも、じつに64日間にわたり、先生は同会館で広布の指揮を執った。草創の友の功労をたたえ、後継の青年の勇気を鼓舞した。「雌伏」から「雄飛」への時を創った。
 「私は、いずこにもまして深き絆で結ばれた神奈川の同志と苦楽を分かち合ってきました。絶対に信頼できる誉れの宝友たちです」
 これが、神奈川の友への一貫して変わらぬ師の心である。
 

【アナザーストーリー】
「神奈川よ、立ち上がれ」
 1997年9月15日、神奈川・海外代表者協議会が神奈川文化会館で開催された。
 席上、先生は万感の思いを語った。
 「きょう私が申し上げたいことは、ひとつ。それは『神奈川よ、叫べ』『神奈川よ、立ち上がれ』ということに尽きる。
 神奈川は、日蓮大聖人が広宣流布の大闘争をされた天地である。私が会長を勇退した後、その足で、ただちに神奈川を訪れたのも、その意義を噛みしめたかったのである。その心を知っていただきたい」
 「立ち上がれ」との師子吼から20年の節目を迎えた2017年9月、神奈川は現在の10総県の布陣に発展した。
  
 @東横浜総県(鶴見総区、神奈川総区、港北総区、緑区、都筑区、青葉区)
 A南横浜総県(中区、南総区、港南総区、磯子総区、金沢総区、栄区)
 B西横浜総県(保土ケ谷総区、旭総区、西区、戸塚総区、横浜栄光区、泉区)
 C川崎総県(川崎総区、幸総区、中原総区、高津総区、宮前総区、多摩総区、麻生勇勝区)
 D横須賀総県(横須賀平和県、横須賀正義県)
 E湘南総県(藤沢県、茅ケ崎県、鎌倉県)
 F相模原総県(相模緑総区、相模中央総区、相模南総区)
 G大和総県(大和県、王者県)
 H神奈川凱旋総県(平塚県、小田原県)
 I神奈川太陽総県(厚木県、秦野旭日県)
  
 2030年の栄光の峰を目指して、10総県の団結も固く、神奈川の友は今再び、師弟共戦の誓願に立ち上がる。

<聖教新聞:2021年3月21日付より>

[一覧トップへ戻る]
©2011 SHINGO