et cetera
「カミ隠し」の国、日本
2005/05/06


 そこで、思わないわけにはいかない。西欧の近代は神を殺し、神の死を宣言して発展してきたということを。とすればわれわれの近代は、あたかもその動きと呼応するかのようにカミやホトケを生かさず殺さずして、ひたすら隠しつづけてきたといえないか。海の彼方の神殺しにたいして、われわれはカミ隠し、ホトケ隠しのゲームを楽しんで、ついに行きつくところまで行きついてしまったということだ。そしてそのゲームの最終的な破局を予告するかのように発生したのが、ほかならぬあの1995(平成7)年3月に世間を驚倒させたオウム真理教によるサリン・テロ事件だったのである。
 いま西欧における「神殺し」、日本における「カミ隠し」ということをいったけれども、そのことを象徴する政治的な一齣風景がみられないではない。土井たか子が社会党の委員長になったときのことだ。女性委員長の誕生、という華やかな話題を呼んだのであるから、その経歴が内外のマスコミによって詳しく報道されたのも当然であった。
 そのとき外国の新聞では、かの女をはっきりとクリスチャンとして紹介していたが、しかし日本の新聞のほとんどはその重要な経歴を無視していた。その後、土井たか子が衆議院議長になっても、そのことは報道されなかった。そのためかどうか、わが国で土井たか子がキリスト教徒であることを知っている人はほとんどいないのではないか。かの女の問題だけではない。戦後の歴代の社会党の委員長には結構クリスチャンがいたのである。
 いわば土井たか子は、ご本人の意思とはかかわりなく公的な世界では「隠れキリシタン」という役割を演じさせられてきたといえそうだ。いったいどうして、そういうことになったのだろうか。かつて内村鑑三は、日本の「大困難」は、日本人がキリスト教を採用しないでキリスト教文明ばかりを採用したことにある、といったことがある。キリスト教抜きの西欧文明の受容に血道を上げてきたと批判したのでる。考えてみれば、これは明治以降の日本が歩んできた道でもあった。西欧近代の「制度」や「文明」の果実だけをひたすら盗用しつづけてきたということだ。そのことを、内村鑑三のさきの言葉は鋭くいいあてている。とすれば、このキリスト教抜きの西欧文明の受容という態度は、社会党委員長の経歴をその宗教的背景から切り離して紹介し、報道する態度と、まさに表裏一体の関係をなしていたというほかはない。そしてこれはむろんマスコミだけの問題ではないはずだ。
 わが国の知識人の大部分は、あなたの宗教は何ですかと問われて、当惑の表情を浮かべる。さてと考えこみ、迷ったあげくに「無宗教」とか、仏教、神道と口ごもって答える。なかば自嘲気味に……。そこには、キリスト教抜きで西欧文明を受容してきた近代日本人の心の内景が、じつにみごとに映しだされているのではないだろうか。宗教というものへの無意識的な軽侮の気持ち、西欧文明的雰囲気へののめりこむような軽信が、そこには入り混っているといってもいいだろう。そしてそのような心的な傾向が、いつのまにか、さきにのべたような現代の「隠れキリシタン」という現象を生みだしてしまったのである。思うに、敗戦直後に南原繁が危惧の念を抱きながら告白した「大切な空白」の中身を埋めることに、戦後のキリスト教世界もまた失敗したというほかはない。
──続く

<中央公論2005/02[特集]曲がり角に立つ日本宗教/戦後の精神的空白と創価学会/山折哲雄著>

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